「AIのゴッドファーザー」雌伏の30年

あらゆる産業に浸透し始めた人工知能(AI)。20世紀後半の2度のブームから「冬の時代」を経て幕が上がった復活劇の主役はカナダ東部の街トロントにいる「AIのゴッドファーザー」と2人の弟子。3人を源流とするAI革命を彩る華麗なる人脈を追う。

■「ディープラーニング」の伝道師

ディープラーニング(深層学習)」。10年前にはほとんど知られていなかったAIのキーワードを世界に広めたのが、トロント大学名誉教授で「ゴッドファーザー」の異名を取るジェフリー・ヒントン(71)、その弟子でフェイスブックのヤン・ルカン(59)、孫弟子でモントリオール大学教授のヨシュア・ベンジオ(55)だ。AI研究者は3人を「カナディアン・マフィア」と称する。

ヒントンがいるトロントには世界中からAI人材が集まり、今や「北のシリコンバレー」と呼ばれる。200社超のAIスタートアップが生まれ、グーグルやエヌビディアが研究拠点を置く。大学近くのインキュベーション施設にはヒントン率いるAI研究所と同じ階にウーバーテクノロジーズが入居している。

トロントにはAIの才能を生かすエコシステム(生態系)がある」。シリコンバレーで起業するつもりだった元フェイスブックのスティーブ・アーバイン(40)は、ルカンの紹介で会ったヒントンからこんな言葉を聞いてトロントに引かれた。17年にシリコンバレーを去りAIスタートアップを起業した。

■注目されなかった論文

トロントの隆盛の原点が、06年にヒントンが発表した論文だ。コンピューターに、自ら繰り返し深く学習する能力を与えることで、飛躍的に認知能力や分析能力を高める考え方だ。ルカンらの研究成果も盛り込んだ、今のAIの根幹をなす論文だったが、当時はあまり注目されなかった。07年に著した関連する論文に至っては、ある著名な学会から受け取りを拒否された。「そういうことは忘れないものだよ」。ヒントンはいう。

不遇の原因の一つは神経回路の仕組みをコンピューターに応用した「ニューラルネットワーク」という技術を使っている点にあった。この理論は当時のコンピューター科学者の間では、古くさい技術だと思われていた。

技術をわかりやすく伝える目新しい言葉はないか――。ヒントンやルカンが見つけたのがディープラーニングだった。技術の本質を突いた言葉を意識的に使うようになって少しずつ知られるようになっていった。そして12年、ついにヒントンらはAI革命を起こす。

その場面に立ち会った日本人がいる。東大の博士課程で画像認識を研究していた牛久祥孝(33)だ。10年に始まったAIの性能を争う国際大会。東大は初回から参戦、初優勝を狙っていた。初めてリーダーを任された牛久がライバルとみていたのは、名門のパロアルト研究所を持つゼロックス。初出場のヒントン率いるトロント大は全く眼中になかった。

競うのは静止画の画像認識の精度だ。牛久が優勝ラインと想定したエラー率は26%台。0.1ポイント単位の攻防になるはずだった。

■10ポイント差の衝撃

東大の研究室で競技の結果を伝えるホームページを見た時、牛久は衝撃を受けた。「なんだこれは!」。エラー率26.1%の東大を抑え1位となったのはトロント大。2位までが0.1ポイント単位の差で接戦を演じたのに対しトロント大は15.3%で、2位と10ポイント以上差をつけた。文字通りケタ違いだった。

さらに驚かされたのが、そこに紹介されていたわずか97文字のトロント大の技術を説明する一文だった。学部生時代にニューラルネットワークを学んでいた牛久は、当時のAI研究者のご多分に漏れずこう思った。「なぜ今さらニューラル?」。謎を解くためにイタリア・フィレンツェに飛んだ。

フィレンツェでは競技の参加者が一堂に会し、各チームの手の内を公開することになっていた。順位が低いチームから発表し、2位の東大の説明中、急に会場の空席が埋まり始めた。次に控えるトロント大の説明を聞きたい研究者たちが続々と集まってきたのだ。

牛久はヒントンのマジックが解き明かされる場面を鮮明に覚えている。壇上で説明するトロント大のチームに議論をふっかけ始めたのがルカン。そのやり取りが進むにつれ、牛久の疑問は徐々に氷解していった。

ほかのチームのAIは、あらかじめ人が教え込んだ特徴を満たしている画像しか認識できなかった。ヒントンたちはディープラーニングを使ってAIがデータを基に、自動的に画像の特徴を学習するようにしたことで、飛躍的にエラーが少なくなったのだ。

■「歴史が変わる」

「歴史が変わるだろうなと思いました」。牛久が言う通り、AIを取り巻く景色はこの日を境にガラリと変わった。世界中の研究者がディープラーニングを学び、企業もその流れに乗り遅れまいと動き始めた。

「冬の時代」の終わりを告げるこの革命を起こした3人の出会いは、約30年前に遡る。

ヒントンは1980年代にニューラルネットワークに関する論文を発表、一部の研究者の間で話題となったが決定的な成果を示せずに忘れられた。論文に書いたAIに、コンピューターの性能が追いついていなかったのだ。

そんな斜陽の学問に関心を持ったのがフランスで学生時代を過ごしていた若きルカン。指導者不在の環境で探し当てたのがヒントンの論文だった。華麗なるAI人脈は、この「発見」から始まったとも言えるだろう。

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■3人の出会い

「この人に会わなければならない」。そう考えていたルカンにチャンスが巡ってきた。85年、フランスで開かれるシンポジウムでヒントンが講演するというのだ。

ヒントンを遠巻きに見ていたルカン。するとヒントンが突然、シンポジウムの主催者に聞いた。「ヤン・ルカンを知っている?」。ルカンは自分の名前が出たことに驚きつつもとっさに答えた。「ここにいます!」

2人は翌日、北アフリカ発祥の料理、クスクスを食べAIの可能性を語り合った。ヒントンもルカンの論文を読んでいた。2年後、ルカンはヒントンのもとで研究を始めた。

トロント大を出てベル研究所に移ったルカンのもとを訪れたのが博士課程を終えたばかりのベンジオ。SF好きが高じてAIに関心を持ち、ある専門書の一章に目を留めた。ヒントンが書いたニューラルネットワークに関する章だった。「私は恋に落ちました」

ヒントンの弟子であるルカンに学んだベンジオはモントリオール大の教授となり、500キロ以上離れたヒントンのもとにも通い詰めた。ヒントンの自宅と、大学を2人で歩く時間に発表前の論文の内容まで相談する間柄になった。

以来、ヒントン、ルカン、ベンジオは一蓮托生(いちれんたくしょう)でAI研究の道なき道を歩んできた。

■コンピューターのノーベル賞を受賞

19年6月15日夜、師弟3人は晴れがましい舞台で顔を合わせた。米サンフランシスコのホテルで開かれた「チューリング賞」の授賞式。コンピューター科学のノーベル賞と呼ばれる同賞に、そろって選ばれたのだ。

壇上に立ったヒントンは2人の弟子や聴衆を前に語りかけた。「私がどれだけこの賞を取りたかったことか……」。ヒントンのこの言葉には、長い冬の時代を過ごした男の充足感がにじんでいた。

現在、ヒントンはグーグル、ルカンはフェイスブックに籍を置き、AI研究に携わる。ベンジオは大学に残り、AIスタートアップの育成に尽力している。ヒントンに敗れた牛久も東大を飛び出し、オムロンの研究子会社に移籍した。異端児たちが生みだしたAIの知恵を世界が求めている。

AI研究は爆発的な勢いで進み始めた。ヒントンたちの理論が過去のものとなる日も遠くないかもしれない。だが3人を源流とするAI人脈は今も枝葉を広げ伸び続けている。

=敬称略、つづく

(清水孝輔、杉本貴司)

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